のみの屁理屈

思いついたことや日頃考えていることを書いていこうと思います

オタクは必然的にロリコンになってしまう

 年上だったアニメキャラがいつの間にか年下になっていた……なんてことはあるあるかと思いますが、向こうが現実の僕と同じように歳をとらないせいで、オタクは自動的にロリコンにさせられますよね。

 ロリキャラの代名詞と言えばチノちゃんだろうか……?ごちうさは2014年にアニメが放送されてる。放送時点でチノちゃんと同い年だった人は

 

2014年 オタク   13歳
                チノちゃん 13歳

 

2023年 オタク   22歳

      チノちゃん    15歳

 

 チノちゃんが作中で微妙に歳をとってるとは言え、この年齢差だと普通にロリコン認定されちゃうよね。9年間ずっと好きだったとしても、側から見ればロリコンに違いない。

 この仕様を理解してるオタク同士なら、「そういうのはロリコンじゃなくて純愛だよ」と慰め合えるだろうけど、互いにロリコン趣味を赦しあうオタク集団の出来上がりでもあるから難しいところよね。

 キャラクターの生年月日を設定してる作品もあるけど、中野梓30歳みたいな状況が発生するからねぇ……個人的にはあずにゃんが30歳でも問題はないけど。

 

IQ130の世界を知りたい人へ

 僕は過去にWAISを受けたことがあるのですが、そのとき全検査IQ130(sd15)という結果が出ました。知能指数について興味のある人なら、このあたりがメンサの入会ラインであること、全体の上位2%に相当するスコアだということはご存知かと思います。

 ネット上ではこの130という数値を強く意識する人が多く「IQ130以上の人に共通する特徴」「IQ130以上の人がしないこと」「IQ130の人の世界」といった記事が散見されますが、そういった記事を見るのが好きな方に向けて発信したいと思います。

 

 まず、何よりも伝えたいことがあります。

 天才を見つけようとするのはやめましょう。

 

 多くの人は「自分の思い描く天才のイメージと合致した存在」のことを天才だと思っています。東京大学に簡単に入学できてしまう人、歴史的な発明をした人、世界的企業の創業者などが当てはまる事でしょう。

 ですが、現実に存在するIQ130以上の人たちというのは、そういう「分かりやすさ」を持った存在ではありません。日本に250万人ほどいて、殆どが普通の日常生活を送っている人たちです。

 もし、「天才とはこうであるはずだ」という意識が少しでも頭の中にあるのなら、それは間違いなので今ここで捨て去ってください。そうでなければ、あなたの望んでいるIQ130の世界を知ることは絶対にできません。

 

 ここまで読んでもらって恐縮なのですが、実は私から伝えられる内容は以上になります。というのも、私がここで自分語りをしてしまうと、ここで話した内容がIQ130の共通認識として捉えられる危険性があるからです。

 私は自分自身のIQを知ってはいますが、ただ知っているだけで、なぜIQ130なのかということを説明することはできません。3時間近くもかかったテストにはそれぞれ意味があり、また様々な根拠があってそういった数値が算出されたのだと思いますが、それを説明できるのは専門知識を持った臨床心理士の方です。

 つまり、ネット上でIQ130以上を謳う人が発言している内容というのは基本的に、それってその人の感想でしかないわけです。信用できる情報とは言えないでしょうね。

 

 もっとわかりやすい情報を求めていた方は、この記事の内容に不満を感じるかもしれませんね。でしたら、私の言ったことは忘れてもらっても構いません。ですがそうすると、求めていたはずのIQ130の意見を感情で否定する図式が発生するのでちょっと面白いですよね。

 

 

 

 

 

「推し活」では貢ぐことでしか想いの強さを表現できない

 「推し」という言葉を文字通りの意味で解釈すれば、誰かに推薦できるほど素晴らしいと思っている存在、ということになります。つまり「推し」はその性質上「自分」と「推し」と「他者」が存在していなければ成り立たない概念です。

 かつての「萌え」が自分と萌える対象だけで完結されていて、自分が愛情を抱いてさえいれば成立するもの、かつ自分が対象への想いを失った瞬間に崩壊してしまうもの、ある意味ではセカイ系的な関係性だったのに対し、「推し」には自分と対象が2人きりの世界が構築される可能性はありません。 

 

 推し活の厄介なところは、推す側が「推されるキミと推すボク」というセカイ系的な関係性に浸ることができず、「推されるキミと沢山の推す人たち」という枠組みの中の、歯車の一つとして組み込まれてしまうことではないでしょうか。

 こういった環境では、「自分が推しのことをどれだけ想っているのか」ということよりも、「自分が推しのことをどれだけ支えているのか」ということが重要になる気がします。言い換えば、どれだけ貢いだかが重要視され、その金額が定量的に想いの程度として扱われるということですね。

「萌え」で育った人間だから「推し」を使いたくないなぁ

 今から10数年前のことでしょうか、よくニュース番組にアニメオタクが登場していて、美少女キャラクターに「萌え」ている姿が小馬鹿にされていました。あまり詳しいことは覚えていませんが、時代を考えるとあずにゃんあたりに「俺の嫁!」とか言っていた気がします。オタク=気持ち悪い、というのがまだ世の中の常識だった時代で、当時キッズだった僕もコソコソと二次元コンテンツを楽しんでいたものでした。

 当時のことを思い返してみると、アニメのキャラクターに恋愛感情を抱いている、またはキャラクターを性的な目で見ていることが露見した子は、皆に気持ち悪いと叩かれるのがお決まりでした。普段はみんなで同じアニメを見たり、同じゲームで遊んでいる友人同士で、互いにオタク趣味を持っていることを知っている間柄であっても、どうしてもそれがバレるとつまらない誹謗が始まるのでした。そのため、僕もそうでしたが、アニメやゲームは好きでも、キャラクターをそういう目では見てはいない!というスタンスでいる子ばかりでした。

 今になって考えると、何人かで『To LOVEる』の話題で盛り上がっている状況で、キャラクターの可愛さや、刺激的なシーンについては全く語らず、ただ漠然と「この漫画なんか面白いよな!」と幼稚園児みたいな感想をみんなで言い合っていたのは、なんとも滑稽というか、流石に無理があるとしか言えないわけですが。とはいえ、そういうカオスが成り立っていたのは、みんな口には出さないだけで本当はそうなんだろ?という感覚を共有していたからに他ならないからです。

 

 僕らが様々な想いを秘匿せざるを得なかった理由は、当時の二次元コンテンツが「萌え」と密接に関わっていたからだと思います。当時のオタクに対して、世間が抱いていたステレオタイプは、「存在しない美少女に恋焦がれ狂っているやばい奴」といったところでしょうか。そしてそんなネガティブなイメージは「萌え」という言葉に乗っかっていました。

 当時、メディアがオタクについて取り上げる際には、いわゆる濃い人(失礼)ばかりを恣意的に出演させ、偏向的な報道をするケースが多かったように思います。マスコミ的にも、人目も憚らず美少女キャラクターに「萌え」ている人の姿は絵になる(?)と思うので、まあ致し方ないことなのかとは思いますが、とにかく当時のキッズとしては、キャラクターへの好意がバレることで自分に「萌え」のレッテルが貼られ、テレビに映る強烈なオタクと同等の存在だとみなされることは避けなければなりませんでした。

 しかし、テレビに映るオタク達が「萌え」ていることで小馬鹿にされている姿を見て、自分はこういう扱いを受けたくは無いと思った反面、彼らの「萌え」を理解していたこともまた事実でした。キャラクターに対しての愛情や、口にするのは少し憚られるような情動は、僕の中にも確かに存在していました。馬鹿正直にお茶の間に自身のリビドーをお届けするオタク達を見て、そういった趣味は隠しておけばいいものを、と呆れる一方で、彼らのように正直に言えたら気持ちいいだろうか、とも思っていました。

 

 おそらく今の子供たちは、キャラクターへの好意を隠さなくて済むのだろうなと思います。そこには世間が少しづつオタク趣味を認めていった影響もあるでしょうが、個人的にはやはり「推し」という言葉の功績が大きいと思います。「推し」にはかつての「萌え」のようなネガティブイメージは無いですし、むしろ自分に「推し」がいることや、何かを「推し」ていることを積極的にアピールすることが世間に認められてしまうわけですから。とても便利な言葉だと思います。ですが、私は「推し」という言葉を使ったことは無いですし、これから使う予定もありません。自分自身の好きの感情を表すのに「推」という字を使うことに違和感があるから、というのが理由なのですが、実は私の中では「萌え」が未だに現役の言葉だから、というもう一つの理由があったりします。やっぱりこの言葉の方がしっくりきます。ですが、現実世界で「萌え」を使うことは決してありません。かつて「萌え」のネガティブイメージから逃げ回っていたせいで、その後遺症が残って口にできないとか、そういうわけではありません。まあ単純に死語になってしまったからしょうがないですね。