のみの屁理屈

思いついたことや日頃考えていることを書いていこうと思います

「萌え」で育った人間だから「推し」を使いたくないなぁ

 今から10数年前のことでしょうか、よくニュース番組にアニメオタクが登場していて、美少女キャラクターに「萌え」ている姿が小馬鹿にされていました。あまり詳しいことは覚えていませんが、時代を考えるとあずにゃんあたりに「俺の嫁!」とか言っていた気がします。オタク=気持ち悪い、というのがまだ世の中の常識だった時代で、当時キッズだった僕もコソコソと二次元コンテンツを楽しんでいたものでした。

 当時のことを思い返してみると、アニメのキャラクターに恋愛感情を抱いている、またはキャラクターを性的な目で見ていることが露見した子は、皆に気持ち悪いと叩かれるのがお決まりでした。普段はみんなで同じアニメを見たり、同じゲームで遊んでいる友人同士で、互いにオタク趣味を持っていることを知っている間柄であっても、どうしてもそれがバレるとつまらない誹謗が始まるのでした。そのため、僕もそうでしたが、アニメやゲームは好きでも、キャラクターをそういう目では見てはいない!というスタンスでいる子ばかりでした。

 今になって考えると、何人かで『To LOVEる』の話題で盛り上がっている状況で、キャラクターの可愛さや、刺激的なシーンについては全く語らず、ただ漠然と「この漫画なんか面白いよな!」と幼稚園児みたいな感想をみんなで言い合っていたのは、なんとも滑稽というか、流石に無理があるとしか言えないわけですが。とはいえ、そういうカオスが成り立っていたのは、みんな口には出さないだけで本当はそうなんだろ?という感覚を共有していたからに他ならないからです。

 

 僕らが様々な想いを秘匿せざるを得なかった理由は、当時の二次元コンテンツが「萌え」と密接に関わっていたからだと思います。当時のオタクに対して、世間が抱いていたステレオタイプは、「存在しない美少女に恋焦がれ狂っているやばい奴」といったところでしょうか。そしてそんなネガティブなイメージは「萌え」という言葉に乗っかっていました。

 当時、メディアがオタクについて取り上げる際には、いわゆる濃い人(失礼)ばかりを恣意的に出演させ、偏向的な報道をするケースが多かったように思います。マスコミ的にも、人目も憚らず美少女キャラクターに「萌え」ている人の姿は絵になる(?)と思うので、まあ致し方ないことなのかとは思いますが、とにかく当時のキッズとしては、キャラクターへの好意がバレることで自分に「萌え」のレッテルが貼られ、テレビに映る強烈なオタクと同等の存在だとみなされることは避けなければなりませんでした。

 しかし、テレビに映るオタク達が「萌え」ていることで小馬鹿にされている姿を見て、自分はこういう扱いを受けたくは無いと思った反面、彼らの「萌え」を理解していたこともまた事実でした。キャラクターに対しての愛情や、口にするのは少し憚られるような情動は、僕の中にも確かに存在していました。馬鹿正直にお茶の間に自身のリビドーをお届けするオタク達を見て、そういった趣味は隠しておけばいいものを、と呆れる一方で、彼らのように正直に言えたら気持ちいいだろうか、とも思っていました。

 

 おそらく今の子供たちは、キャラクターへの好意を隠さなくて済むのだろうなと思います。そこには世間が少しづつオタク趣味を認めていった影響もあるでしょうが、個人的にはやはり「推し」という言葉の功績が大きいと思います。「推し」にはかつての「萌え」のようなネガティブイメージは無いですし、むしろ自分に「推し」がいることや、何かを「推し」ていることを積極的にアピールすることが世間に認められてしまうわけですから。とても便利な言葉だと思います。ですが、私は「推し」という言葉を使ったことは無いですし、これから使う予定もありません。自分自身の好きの感情を表すのに「推」という字を使うことに違和感があるから、というのが理由なのですが、実は私の中では「萌え」が未だに現役の言葉だから、というもう一つの理由があったりします。やっぱりこの言葉の方がしっくりきます。ですが、現実世界で「萌え」を使うことは決してありません。かつて「萌え」のネガティブイメージから逃げ回っていたせいで、その後遺症が残って口にできないとか、そういうわけではありません。まあ単純に死語になってしまったからしょうがないですね。