のみの屁理屈

思いついたことや日頃考えていることを書いていこうと思います

「推し活」では貢ぐことでしか想いの強さを表現できない

 「推し」という言葉を文字通りの意味で解釈すれば、誰かに推薦できるほど素晴らしいと思っている存在、ということになります。つまり「推し」はその性質上「自分」と「推し」と「他者」が存在していなければ成り立たない概念です。

 かつての「萌え」が自分と萌える対象だけで完結されていて、自分が愛情を抱いてさえいれば成立するもの、かつ自分が対象への想いを失った瞬間に崩壊してしまうもの、ある意味ではセカイ系的な関係性だったのに対し、「推し」には自分と対象が2人きりの世界が構築される可能性はありません。 

 

 推し活の厄介なところは、推す側が「推されるキミと推すボク」というセカイ系的な関係性に浸ることができず、「推されるキミと沢山の推す人たち」という枠組みの中の、歯車の一つとして組み込まれてしまうことではないでしょうか。

 こういった環境では、「自分が推しのことをどれだけ想っているのか」ということよりも、「自分が推しのことをどれだけ支えているのか」ということが重要になる気がします。言い換えば、どれだけ貢いだかが重要視され、その金額が定量的に想いの程度として扱われるということですね。